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立て続けに名前で呼ばれたのは偶然?

顔は知っていても名前は憶えていないだろうと思う人から、名前で呼ばれてどっきりする。滅多にあることではありません。それが立て続けに、いずれも半年以上も行っていない、歯医者とギリシャ料理屋で。今までこんな感じで名前を呼ばれた経験はないように思うのに。

こういったレアなことが続いておこる経験って意外に多くないでしょうか?

半年ぶりのところに立て続けに入る、というのはそれだけでレアなことで、そこで必ず名前で呼びかけられるなんてのはスーパーレア。

このとき、レアが続いたから印象に残るのか、レアなことには続けて出会うものなのか。

前者は人の認知バイアスと呼ばれるもので、バス待ちで向かいの逆向きのバスばかり来るとか、洗車をすると雨が降るとか、、いろいろなバリエーションがあります。(バイアス周りの研究が、行動経済学の理論的支柱となっています。)

一方後者だとすると。。これは謎で、自分の認知に帰することができないので説明できない。

しかし、逆の視点で、仮に店員はお客みんなの名前を憶えている、とします。その場合、それが明らかになるのは店員が声に出してお客に話しかけたときだけ。

昨日、私を見て、名前を呼んで話しかける気になる。

それはつまり、私が話しかけてよい(話しかけてもらいたそうな)顔つき・雰囲気でいた日だった、それだけのことなのかもしれません。

そういえば、直前に仕事がうまく片付いた日だったのでした。

世の中の不思議も、人がそう思うだけで、何らかの連鎖で説明できるのかもしれませんね。

※ なんとなく参考本

「人間 この信じやすきもの」T. ギロビッチ https://amzn.to/2GiwWR6

「予想通りに不合理」ダン・アリエリー https://amzn.to/2UzNPdT

「シンクロニシティ」F.D.ピート https://amzn.to/2DPAXe3

セレンディピティとAI

 “セレンディピティ”は「偶然の幸運な出会い」という意味合いで使われることが多いようです。

しかし同じ偶然の出会いでも、大半の人はその価値に気づかず見過ごしてしまいます。一方、セレンディピティが世紀の大発見につながる例もよく聞きます。(ニュートンの万有引力、フレミングのペニシリン、クリックワトソンのDNA二重らせんモデル、など多数)

「見過ごし」か「発見」か、その二つを分かつ違いこそが重要で、それは差異や違和感を感知する力、その力を準備するだけの長く深いこだわりや思考の時間、そして旺盛な好奇心・探求心。

 そう考えると実はセレンディピティこそ、選ばれし人にのみ訪れる、偶然に見える必然、ともいえるのではないでしょうか。(実際、発見というものは、繰り返し同じ人に、起こるものらしいですよ)

「チャンスの女神は前髪しか見せない」×「天は自ら助くる者を助く」的なもの。

訪れた瞬間に感知しきる能力。決して周囲の演出によっては作り出せない、その人の内面に依拠する出会い。

偶然性があるとするとそれは、ちょうど良いときにちょうど良く出会うという点ですね。ちょうど良い、これは外的状況だけでなく内的コンテクスト、つまり心の余裕度のようなものも含むでしょう。その意味では、確率をあげるには、心に余裕があり、そしていろんな場に顔を出すという行動と切り離せないのかもしれません。

いわば世の中への向き合い方に依存することになります。

となると、これはある程度は訓練できるもの、つまり教育の対象ではないでしょうか?

セレンディピティを技術で創り出し、あるいは人側をサポートし、チャンスをつかむ機会を増やしたい(トートロジーのようにみえてちょっとメタ)。そんな大それたことをいつも考えています。

人を豊かにするAIの一つの在り方だと思うからです。

 

「発見とは、誰もが見ていることを見て、誰も考えなかったことを考えることである」アルバート・セント-ジェルジ

※セレンディピティは、セレンディップ(スリランカ:旧セイロン)の3王子が「偶然と洞察力によって、探してもいないことをいつも発見し続けた」ということから生まれた単語だという。

至高性とAI、寿命150歳をどう生きるか

 今年の年末年始は、とある個人的な事情と当初の目論見の破綻があいまって、一般に仕事と呼ばれるようなことをしていました。それは意味のある事かまるで分からないことでした。

 ジョルジュ・バタイユという哲学者に「有用性」「至高性」という論考があり、要は「未来の利益のために現在を犠牲にするというのは奴隷的でせせこましい考え方で、こうした考えに立つ人間は詩を知らない」というようなことを言っていて、共感してきました。美しい夕陽を見てこれは心の平安に効くとか、クラシックを聴いて教養を身に付けるのだとか、美味しい赤ワインを飲んでからだに良いとか、こういった考えを持ってしまう人のことでしょう。

 すぐ役に立つ意味を求めてしまう人間の習性が、技術進化に役立ってきた面は否めないのですが、”美しい”という感覚がその方向を決めてきた、というふうに考えたい(※)

 かくいう私も人のことは言えませんが、今回不思議と、紅白も見ず、正月に日本酒も飲まずに仕事をしても、将来への備えをする、という考えや感覚は全くなくて、今やるべきと思うからやる、そんな気持ちでいました。


 そんな折、1月3日の日経新聞電子版に

『衰えない肉体、寿命150歳 遠のく「死」問われる「生」』

という記事が出ていました。米ワシントン大学の今井真一郎教授らが実際に老化を抑える働きをする長寿遺伝子を突き止めたらしい。

 私は10年以上前に確かカーツワイルの『シンギュラリティ』本か何かで150歳まで生きられるかも、と思ってしまって以来、よく仲間とまだ若者なんだ、もっと遊ぼう、みたいな話をしていましたが、シャキシャキポックリ150歳が現実になるとすると、本当に今自分は修士出たばかりの入社1,2年目相当ということになり、将来への備えも何も、まさに「今」を真剣に生きるに精いっぱいなお年頃になった、というわけなのでした。

 それにしても人間歳を取って知恵がついたようにみえても、何か新しい行動を精いっぱいすれば、次々と外側に破らなければならない壁が待ち構えているものです。そんな時に、いつも思い出すのは本質的な哲学者たちのことば。

『鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。
生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。』
(ヘルマン・ヘッセ)

『何言ってんだよ!その崖っぷちが最高のチャンスなんだぜ!』(松岡修造)

 今年はこれらのことばを思い出す場面が一層増えそうです。

※ ”美しい”が「わかるわー」というとき、人は、意味的分析的に「わかる」をすっ飛ばしてしまいます。つまり感性は、暗黙知のあり方に似ているようです。特化型AIが、暗黙知の領域でこそ活躍するとするならば、実は感性の領域でこそAIは花開くのではないでしょうか。

この点はまたの会に考えてみます。

2019年の開始・GIGIブログ開始のご挨拶

2019年が明けました。日本の年明けは、ここから寒さがいや増す時期ですが、少しずつ日は長くなるためか清新で凛とした空気が流れ始め、前向きな気分になる、何かを決意し始める良い時期ですね。

私は起業してほぼ半年、主業務の傍らで週に1,2日、自分の会社で新しいチャレンジをしています。わずかな時間とはいえ、大企業での所属と異なる場に生身を置いてみて、生きるということの厳しさと意味を感じています。この試みを始めていなければ知らずに過ぎることばかりが溢れています。世の中は、50年くらい生きている程度では知らないことばかり。

ここでいう知る、というのは、頭で理解していることと大きく異なり、身を切るような体でしか感じられないようなことだと、まず知りました。

そんな思いや気づき、考えていることを綴っていきたいと思います。

できるだけ多くの方々と、経験や論理や感覚を共有して相互に刺激しあえていけたらと思っています。

GIG Intelligence の社名の由来、即発的な知のセッションにぜひともお付き合いください。コメントもお待ちしております。

GIGIブログの投稿を開始します。よろしくお願いいたします。

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