アーカイブ: 2019年2月15日

セレンディピティを探して

セレンディピティは「差異や違和感を感知する力、その力を準備するだけの長く深いこだわりや思考の時間、そして旺盛な好奇心・探求心。」 と書きました。

”賢さ”にも色々ありますが、セレンディピティに出会う力も、賢さのひとつの現れでしょう。
チャンスを感知しつかみ取る能力としてみれば、それは訓練で得られるかもしれないと思うわけです。

知の巨人、外山滋比古先生も、セレンディピティを、「探しているものではない、思いがけないことを発見する能力のこと」と書かれています。

つまりセレンディピティの前提は「探し求めること」 となります。

”賢さ”は英語で “Sagacity”。

この語の発音が、”探して” と聞こえるのはセレンディピティでなくただの偶然なのでしょうか?


※ なんとなく参考本

「乱読のセレンディピティー」 外山滋比古 https://amzn.to/2SQpgw1

~科学的発見で多く見られるセレンディピティが、どうしたら人文系で起こせるか、乱読によってである、と書かれています。乱読によってタコつぼから出る、という効用だけでなく、ことばより早く読むことによって、ことばの残像がオリジナリティの場となる可能性があるということでしょうか。

「風のように早く読め。」

立て続けに名前で呼ばれたのは偶然?

顔は知っていても名前は憶えていないだろうと思う人から、名前で呼ばれてどっきりする。滅多にあることではありません。それが立て続けに、いずれも半年以上も行っていない、歯医者とギリシャ料理屋で。今までこんな感じで名前を呼ばれた経験はないように思うのに。

こういったレアなことが続いておこる経験って意外に多くないでしょうか?

半年ぶりのところに立て続けに入る、というのはそれだけでレアなことで、そこで必ず名前で呼びかけられるなんてのはスーパーレア。

このとき、レアが続いたから印象に残るのか、レアなことには続けて出会うものなのか。

前者は人の認知バイアスと呼ばれるもので、バス待ちで向かいの逆向きのバスばかり来るとか、洗車をすると雨が降るとか、、いろいろなバリエーションがあります。(バイアス周りの研究が、行動経済学の理論的支柱となっています。)

一方後者だとすると。。これは謎で、自分の認知に帰することができないので説明できない。

しかし、逆の視点で、仮に店員はお客みんなの名前を憶えている、とします。その場合、それが明らかになるのは店員が声に出してお客に話しかけたときだけ。

昨日、私を見て、名前を呼んで話しかける気になる。

それはつまり、私が話しかけてよい(話しかけてもらいたそうな)顔つき・雰囲気でいた日だった、それだけのことなのかもしれません。

そういえば、直前に仕事がうまく片付いた日だったのでした。

世の中の不思議も、人がそう思うだけで、何らかの連鎖で説明できるのかもしれませんね。

※ なんとなく参考本

「人間 この信じやすきもの」T. ギロビッチ https://amzn.to/2GiwWR6

「予想通りに不合理」ダン・アリエリー https://amzn.to/2UzNPdT

「シンクロニシティ」F.D.ピート https://amzn.to/2DPAXe3