ヒューマニティ志向AI

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唐突ですが、 ヒューマニティとは何か?を考えたいと思います。

「人間らしさとは何か」

なぜ脳には、空想上の経験を楽しめるような報酬システムがあるのか?あるいはなぜ雨の降る午後に、自動車の修理マニュアルよりミステリー小説を読みたいと思うのか?

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ *1

脳の進化の特徴や必然を最新科学で語る素晴らしい書物の中で一見、進化に意味の無さそうな芸術本能について語るくだりです。

人の脳は世界の異なる側面を探し求め、感知し、経験すると、喜びの感覚という報酬を受ける。つまり外界適応でなく、内部適応、脳の自己充足による選好だとガザニガは言います。

美しいものへの継続的注意は本質的な報いあるものであり、異性や獲物、風景や、そして高度な技術研究開発にまでつながる根本だと。

トランスヒューマニズム

一方、言わずと知れたカーツワイル 「シンギュラリティ」*2 と古くからある超人思想が合体した「トランスヒューマニズム」という潮流がシリコンバレーで盛り上がっているそうです。
テクノロジーの使用を通じた人間の進化を目指す文化的・知的運動で、サイボーグ化、脳とAIの融合 、不老不死。。
「トランスヒューマニズム党」が2016年の米大統領選にも名乗りを上げたのにはたまげました。

若干、カルト的香りがしますが、技術の指数関数的な進歩を思えば、あるレベルまでトランスヒューマン化が進むのは不可避なのかもしれません。 歓迎すべきかどうかはともかく。

能力拡張された時、人の本質として何が残るでしょうか?

それは人の脳のしくみ(あるいは癖)からくる、継続的な美への希求ではないでしょうか?

ならば、美に報酬を与えるよう「深層学習」×「強化学習」で果たせるのでは、とAI屋はおっしゃるかもしれない。

では「美」とは何でしょうか?

それをカクカクシカジカと定義して、それに当てはまる時、人は美しいと感じるのか、といえば、極めて違和感が残ります。

「美」や「美しさ」と静的に扱った途端に、「美しい」という感覚から遠ざかります。上の議論でいう脳が感じる「美」は、「美しい」であって、橋本治言うところの動的な心の動きとしての「わかるわー」という「美しい」はどんなものなのか?と問いを変える必要がありそうです。


象徴的に橋本は言います。

子供は「子供」になり「人間」になる。。しかし人間の前から夕焼けが遠ざかって、「人間の一日は感動で終わる」という事実も子供から遠ざかっていったとき、「美しいをわかる」が曖昧になっていく。

人はなぜ「美しい」がわかるのか』 橋本治 *3

美しいをわかるには「憧れ」や「欠落」つまり「外への方向性」が必要なのだと続きます。

最近また、人の本質を捉える視点に出会いました。

人は希少な資源をめぐって競争する動物である。
愛、注目、権力、地位、、次の希少を求めて競争し、決して終わらない。

予測マシンの世紀: AIが駆動する新たな経済』アジェイ・ア グラワル *4

近い将来、ロボットやAIに囲まれて衣食満ち足りても、人は何か気になる希少なものを求め続け、旅にも出たりするのでしょう。

ここにも共通しているのは、現状への欠落感と「まだ見ぬ外への方向性」

トランス前のヒューマニズムへ

脳にこのような機構が組み込まれているならば、そうした脳を持つ、人という種が生み出す社会や文化も、内在的に「まだ見ぬ外への方向性」を尊ぶようにできていると考えられないでしょうか?

月へ、火星へ、宇宙へ、量子へ、脳へ、心へ。科学・技術・哲学の冒険は留まるところを知らず、それを人々は掛け値なしに称賛します。

そうだとすれば、仮にトランスヒューマン化が進んでも、脳が置き換わらない限り、人は社会・文化・文明レベルで変わらない「まだ見ぬ外への方向性」をもって「美しい」を追求する。

これがヒューマニティの根本の価値感だと私は思っています。加えて同義にも思えるヒューモアと。

それらを技術とどう結びつけるか、技術でどうブーストするか、がこれからのテーマとなります。

#ご意見いただけると幸いです。

  

【 参考】
*1『 人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ
脳と心・社会・他人の情動・芸術・意識・肉体、など極めて多面的なトピックを、脳神経学者が語る、素晴らしく充実した枕本。論理とストーリー性とユーモアの調和が見事です。
人間のうわさ話は霊長類の社会的グルーミング、その集団の規模や遊びの量は相対的脳サイズと相関する、 などの面白ネタや、ひとつの意識=自己の発生について、左半球の解釈装置とエピソード記憶、左右のネットワークによる創発の仮説について、など、惹きつけられる話が満載です。
AIを開発 する人は読むべきです。

*2『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき 』レイ・カーツワイル
2005年にシンギュラリティの概念をこの本から知り、衝撃を受けたのでした。しかしより衝撃を受けたのは「宇宙が静かすぎる」という、唯一悲観的なフレーズでした。つまり種は一定レベル以上高度にはなれない、他の種と交信する前に種の破滅を迎える、ということです。

*3『人はなぜ「美しい」がわかるのか』 橋本治
最近亡くなった変態的哲人の独特な思考。AIを開発 する人は読むべきです。

*4『予測マシンの世紀: AIが駆動する新たな経済』アジェイ・ア グラワル
トロント大学ロットマン経営大学院教授で創造的破壊ラボ(CDL)創設者が書いたAI経済の本。かつてない「予測マシン」としてのAIが経済に及ぼす影響を論じる。自由意志の観点でシンギュラリティは哲学的には不可能。



セレンディピティをAIで創る

セレンディピティを技術で創り出し、チャンスをつかむ機会を増やすことができるでしょうか?そんな大それたことが。
それはある程度可能だと考えています。情報や芸術との出会いの領域においては。

カギは領域成熟度の把握とそれに応じた適切な振り方・振り幅の設定です。要するにコンテンツの捉え方と距離の個人化です

同じ領域にあるモノの差異が感じられたら、その領域において成熟した証拠。

違いがわかる男のゴールドブレンド」ってやつです。(そういえばいつの間にかCMから消えてなくなりましたね。)

AIにおける知識構造はセレンディピティのネタの宝庫なはずです。 極端に細やかな差異と距離まで見出せるからです。
特徴量の範囲で、という限定付きですが(これについては本質的なのでまた別の回に)。

問題はそれが意味のある差異なのか?意味判断のできないAIにはそれを感知できません。

意味を見出すのは人間です。

AIが作った意外な関係性を、意外だけれど意味あるものとして理解できるほどに成熟しているか?

その成熟度判定をパスした人に対して、セレンディピティのチャンスを増やすことは可能と思うわけです。

セレンディピティを探して

セレンディピティは「差異や違和感を感知する力、その力を準備するだけの長く深いこだわりや思考の時間、そして旺盛な好奇心・探求心。」 と書きました。

”賢さ”にも色々ありますが、セレンディピティに出会う力も、賢さのひとつの現れでしょう。
チャンスを感知しつかみ取る能力としてみれば、それは訓練で得られるかもしれないと思うわけです。

知の巨人、外山滋比古先生も、セレンディピティを、「探しているものではない、思いがけないことを発見する能力のこと」と書かれています。

つまりセレンディピティの前提は「探し求めること」 となります。

”賢さ”は英語で “Sagacity”。

この語の発音が、”探して” と聞こえるのはセレンディピティでなくただの偶然なのでしょうか?


※ なんとなく参考本

「乱読のセレンディピティー」 外山滋比古 https://amzn.to/2SQpgw1

~科学的発見で多く見られるセレンディピティが、どうしたら人文系で起こせるか、乱読によってである、と書かれています。乱読によってタコつぼから出る、という効用だけでなく、ことばより早く読むことによって、ことばの残像がオリジナリティの場となる可能性があるということでしょうか。

「風のように早く読め。」

立て続けに名前で呼ばれたのは偶然?

顔は知っていても名前は憶えていないだろうと思う人から、名前で呼ばれてどっきりする。滅多にあることではありません。それが立て続けに、いずれも半年以上も行っていない、歯医者とギリシャ料理屋で。今までこんな感じで名前を呼ばれた経験はないように思うのに。

こういったレアなことが続いておこる経験って意外に多くないでしょうか?

半年ぶりのところに立て続けに入る、というのはそれだけでレアなことで、そこで必ず名前で呼びかけられるなんてのはスーパーレア。

このとき、レアが続いたから印象に残るのか、レアなことには続けて出会うものなのか。

前者は人の認知バイアスと呼ばれるもので、バス待ちで向かいの逆向きのバスばかり来るとか、洗車をすると雨が降るとか、、いろいろなバリエーションがあります。(バイアス周りの研究が、行動経済学の理論的支柱となっています。)

一方後者だとすると。。これは謎で、自分の認知に帰することができないので説明できない。

しかし、逆の視点で、仮に店員はお客みんなの名前を憶えている、とします。その場合、それが明らかになるのは店員が声に出してお客に話しかけたときだけ。

昨日、私を見て、名前を呼んで話しかける気になる。

それはつまり、私が話しかけてよい(話しかけてもらいたそうな)顔つき・雰囲気でいた日だった、それだけのことなのかもしれません。

そういえば、直前に仕事がうまく片付いた日だったのでした。

世の中の不思議も、人がそう思うだけで、何らかの連鎖で説明できるのかもしれませんね。

※ なんとなく参考本

「人間 この信じやすきもの」T. ギロビッチ https://amzn.to/2GiwWR6

「予想通りに不合理」ダン・アリエリー https://amzn.to/2UzNPdT

「シンクロニシティ」F.D.ピート https://amzn.to/2DPAXe3

セレンディピティとAI

juuryoku_newton セレンディピティとAI

 “セレンディピティ”は「偶然の幸運な出会い」という意味合いで使われることが多いようです。

しかし同じ偶然の出会いでも、大半の人はその価値に気づかず見過ごしてしまいます。一方、セレンディピティが世紀の大発見につながる例もよく聞きます。(ニュートンの万有引力、フレミングのペニシリン、クリックワトソンのDNA二重らせんモデル、など多数)

「見過ごし」か「発見」か、その二つを分かつ違いこそが重要で、それは差異や違和感を感知する力、その力を準備するだけの長く深いこだわりや思考の時間、そして旺盛な好奇心・探求心。

 そう考えると実はセレンディピティこそ、選ばれし人にのみ訪れる、偶然に見える必然、ともいえるのではないでしょうか。(実際、発見というものは、繰り返し同じ人に、起こるものらしいですよ)

「チャンスの女神は前髪しか見せない」×「天は自ら助くる者を助く」的なもの。

訪れた瞬間に感知しきる能力。決して周囲の演出によっては作り出せない、その人の内面に依拠する出会い。

偶然性があるとするとそれは、ちょうど良いときにちょうど良く出会うという点ですね。ちょうど良い、これは外的状況だけでなく内的コンテクスト、つまり心の余裕度のようなものも含むでしょう。その意味では、確率をあげるには、心に余裕があり、そしていろんな場に顔を出すという行動と切り離せないのかもしれません。

いわば世の中への向き合い方に依存することになります。

となると、これはある程度は訓練できるもの、つまり教育の対象ではないでしょうか?

セレンディピティを技術で創り出し、あるいは人側をサポートし、チャンスをつかむ機会を増やしたい(トートロジーのようにみえてちょっとメタ)。そんな大それたことをいつも考えています。

人を豊かにするAIの一つの在り方だと思うからです。

「発見とは、誰もが見ていることを見て、誰も考えなかったことを考えることである」アルバート・セント-ジェルジ

※セレンディピティは、セレンディップ(スリランカ:旧セイロン)の3王子が「偶然と洞察力によって、探してもいないことをいつも発見し続けた」ということから生まれた単語だという。