ハイデガーと予測AI

「誰にもわかるハイデガー」(筒井康隆)

「存在と時間」、もっとも恐ろしげな哲学書にして、人の良心・倫理の極北を示す書。

「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、<存在者が存在する>という驚異のなかの驚異を経験するのである」(ハイデガー)

このわかりにくい哲学のもっともわかりやすい解説書に出会いました。「文学部唯野教授」が’90年に行った講演録。

文学部唯野教授=筒井康隆と、マルティン・ハイデガー

Bravo!筒井康隆氏。また今回解説をつけた大澤真幸氏もBravo!哲学にはユーモアをもって近づくべきと思わせる本です。

「死への先駆」と良心

巨大なハイデガー哲学のうち、ここで取り上げたいのは、良心への意志(倫理・気遣いの極大化)が「死への先駆」に最も純粋に現れるという点。

死は生きている間には経験することのできない特異点であり、死に先駆けてそれを自分事として了解するには、その「無限性の欠如」を理解しなくてはならない。これは数理論理の世界では、ゲーデルの不完全性定理により厳密に証明されたものに通ずるようですが、日々の暮らしにおいて自覚的にいることは不可能に思えます。

締切が迫ってやっと、ことに着手し、締切が過ぎたとき、純粋に良心の呵責に激しく苛まれる。よくあることです。人はそういうものなので、ハイデガーの言う「企投」※1、サルトルの言う「アンガージュマン」の態度をとるのは容易ではないのです。(あぁ青春の実存主義!)

時間性の3つの契機

「到来」(将来)と「既在」(過去)と「現成化」(現在)。死を含む未来を今ヴィヴィッドに捉え、既に在る過去と、今と言った瞬間の過去から今を瞬視する。このうち死を含む「到来」の優位のうちに3つの契機は統合されるといいます。

死は怖いのでできればその場にいたくない(笑)さらに暴力的な死の前に未了ゆえの悔恨は必然である。しかし逆に悔恨の中にこそ最も純粋な良心が生まれる。なのでそれを先取りするところから始めよう。先取りは不安によって誰にでも可能である…

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AIによる予測モデル

話題を急に変えますが、機械学習による予測では、過去を今だとおいて、既知の未来を予測するモデルを作ります。未来は過去に含まれるという信念に基づくモデルと言えるでしょう。

例えばデジタル広告におけるクリック予測や在庫予測、レコメンデーションにも疑いなく適用されてきた方法論です。

しかし一人ひとりの行動予測がこの方法論で高精度化できると信じるとすれば、これはハイデガーの議論とは異なる、実に凡庸なもののとらえ方であり薄っぺらな人間理解、と言わざるを得ません。※2

「現存在」とAI

もし未来がわかったら、人はそれに従う・抗うように今の行動を変えます。
問題は未来がわからないことながら、特異点としての死だけは誰にも等しく認識されている。「死への先駆」から倫理的に良心に従う意志を持つ。

未来を定めて今を見て、過去と異なる選択をするのが現存在(”Dasein”たる人間)です。

「現存在の存在は時間性である」(ハイデガー)

そんな現存在」には、AIも歯が立たない。逆に今のAIに行動予測される人間は、現存在とは言い難いわけです。

現存在への個人化へ

実は、現状のAIによる個人化は、統計的な凡人化であって、統計的に当たればビジネスとしては充分儲かるからよいのですね。

しかし本来、個人化というならば、人の変化する能力とその方向をこそ予測すべきで、特にレコメンデーションは変化の後に必要になるモノを提示できることを目指すべきでしょう。殊にその人にとって未経験な領域は不安で一杯でしょうから。

レコメンドすべきは「到来」の1点か、受け入れるべき「現成化」か?

次回は実存主義的レコメンデーションの方法論を考えていきたいと思います。

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※1, 2 第2次AI ブームの時、AIに対して猛烈な批判の声を上げ、「フレーム問題」「記号接地問題」を提起したドレイファスやサールといった哲学者たちは、ハイデガー研究者だったと知りました。

彼らの主張は、「人間は世界というものの中に「投げ込まれて」、自分を「企投」しつつ生きている。機械にはそうした生活世界がない。そんな機械が、どうやってものを考えられるのか?」というものでした。

本論は行動予測という、もっと小さなことしか言っておりません…

ヒューマニティ志向AI

唐突ですが、 ヒューマニティとは何か?を考えたいと思います。

「人間らしさとは何か」

なぜ脳には、空想上の経験を楽しめるような報酬システムがあるのか?あるいはなぜ雨の降る午後に、自動車の修理マニュアルよりミステリー小説を読みたいと思うのか?

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ *1

脳の進化の特徴や必然を最新科学で語る素晴らしい書物の中で一見、進化に意味の無さそうな芸術本能について語るくだりです。

人の脳は世界の異なる側面を探し求め、感知し、経験すると、喜びの感覚という報酬を受ける。つまり外界適応でなく、内部適応、脳の自己充足による選好だとガザニガは言います。

美しいものへの継続的注意は本質的な報いあるものであり、異性や獲物、風景や、そして高度な技術研究開発にまでつながる根本だと。

トランスヒューマニズム

一方、言わずと知れたカーツワイル 「シンギュラリティ」*2 と古くからある超人思想が合体した「トランスヒューマニズム」という潮流がシリコンバレーで盛り上がっているそうです。
テクノロジーの使用を通じた人間の進化を目指す文化的・知的運動で、サイボーグ化、脳とAIの融合 、不老不死。。
「トランスヒューマニズム党」が2016年の米大統領選にも名乗りを上げたのにはたまげました。

若干、カルト的香りがしますが、技術の指数関数的な進歩を思えば、あるレベルまでトランスヒューマン化が進むのは不可避なのかもしれません。 歓迎すべきかどうかはともかく。

能力拡張された時、人の本質として何が残るでしょうか?

それは人の脳のしくみ(あるいは癖)からくる、継続的な美への希求ではないでしょうか?

ならば、美に報酬を与えるよう「深層学習」×「強化学習」で果たせるのでは、とAI屋はおっしゃるかもしれない。

では「美」とは何でしょうか?

それをカクカクシカジカと定義して、それに当てはまる時、人は美しいと感じるのか、といえば、極めて違和感が残ります。

「美」や「美しさ」と静的に扱った途端に、「美しい」という感覚から遠ざかります。上の議論でいう脳が感じる「美」は、「美しい」であって、橋本治言うところの動的な心の動きとしての「わかるわー」という「美しい」はどんなものなのか?と問いを変える必要がありそうです。


象徴的に橋本は言います。

子供は「子供」になり「人間」になる。。しかし人間の前から夕焼けが遠ざかって、「人間の一日は感動で終わる」という事実も子供から遠ざかっていったとき、「美しいをわかる」が曖昧になっていく。

人はなぜ「美しい」がわかるのか』 橋本治 *3

美しいをわかるには「憧れ」や「欠落」つまり「外への方向性」が必要なのだと続きます。

最近また、人の本質を捉える視点に出会いました。

人は希少な資源をめぐって競争する動物である。
愛、注目、権力、地位、、次の希少を求めて競争し、決して終わらない。

予測マシンの世紀: AIが駆動する新たな経済』アジェイ・ア グラワル *4

近い将来、ロボットやAIに囲まれて衣食満ち足りても、人は何か気になる希少なものを求め続け、旅にも出たりするのでしょう。

ここにも共通しているのは、現状への欠落感と「まだ見ぬ外への方向性」

トランス前のヒューマニズムへ

脳にこのような機構が組み込まれているならば、そうした脳を持つ、人という種が生み出す社会や文化も、内在的に「まだ見ぬ外への方向性」を尊ぶようにできていると考えられないでしょうか?

月へ、火星へ、宇宙へ、量子へ、脳へ、心へ。科学・技術・哲学の冒険は留まるところを知らず、それを人々は掛け値なしに称賛します。

そうだとすれば、仮にトランスヒューマン化が進んでも、脳が置き換わらない限り、人は社会・文化・文明レベルで変わらない「まだ見ぬ外への方向性」をもって「美しい」を追求する。

これがヒューマニティの根本の価値感だと私は思っています。加えて同義にも思えるヒューモアと。

それらを技術とどう結びつけるか、技術でどうブーストするか、がこれからのテーマとなります。

#ご意見いただけると幸いです。

  

【 参考】
*1『 人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ
脳と心・社会・他人の情動・芸術・意識・肉体、など極めて多面的なトピックを、脳神経学者が語る、素晴らしく充実した枕本。論理とストーリー性とユーモアの調和が見事です。
人間のうわさ話は霊長類の社会的グルーミング、その集団の規模や遊びの量は相対的脳サイズと相関する、 などの面白ネタや、ひとつの意識=自己の発生について、左半球の解釈装置とエピソード記憶、左右のネットワークによる創発の仮説について、など、惹きつけられる話が満載です。
AIを開発 する人は読むべきです。

*2『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき 』レイ・カーツワイル
2005年にシンギュラリティの概念をこの本から知り、衝撃を受けたのでした。しかしより衝撃を受けたのは「宇宙が静かすぎる」という、唯一悲観的なフレーズでした。つまり種は一定レベル以上高度にはなれない、他の種と交信する前に種の破滅を迎える、ということです。

*3『人はなぜ「美しい」がわかるのか』 橋本治
最近亡くなった変態的哲人の独特な思考。AIを開発 する人は読むべきです。

*4『予測マシンの世紀: AIが駆動する新たな経済』アジェイ・ア グラワル
トロント大学ロットマン経営大学院教授で創造的破壊ラボ(CDL)創設者が書いたAI経済の本。かつてない「予測マシン」としてのAIが経済に及ぼす影響を論じる。自由意志の観点でシンギュラリティは哲学的には不可能。



至高性とAI、寿命150歳をどう生きるか

 今年の年末年始は、とある個人的な事情と当初の目論見の破綻があいまって、一般に仕事と呼ばれるようなことをしていました。それは意味のある事かまるで分からないことでした。

 ジョルジュ・バタイユという哲学者に「有用性」「至高性」という論考があり、要は「未来の利益のために現在を犠牲にするというのは奴隷的でせせこましい考え方で、こうした考えに立つ人間は詩を知らない」というようなことを言っていて、共感してきました。美しい夕陽を見てこれは心の平安に効くとか、クラシックを聴いて教養を身に付けるのだとか、美味しい赤ワインを飲んでからだに良いとか、こういった考えを持ってしまう人のことでしょう。

 すぐ役に立つ意味を求めてしまう人間の習性が、技術進化に役立ってきた面は否めないのですが、”美しい”という感覚がその方向を決めてきた、というふうに考えたい(※)

 かくいう私も人のことは言えませんが、今回不思議と、紅白も見ず、正月に日本酒も飲まずに仕事をしても、将来への備えをする、という考えや感覚は全くなくて、今やるべきと思うからやる、そんな気持ちでいました。


 そんな折、1月3日の日経新聞電子版に

『衰えない肉体、寿命150歳 遠のく「死」問われる「生」』

という記事が出ていました。米ワシントン大学の今井真一郎教授らが実際に老化を抑える働きをする長寿遺伝子を突き止めたらしい。

 私は10年以上前に確かカーツワイルの『シンギュラリティ』本か何かで150歳まで生きられるかも、と思ってしまって以来、よく仲間とまだ若者なんだ、もっと遊ぼう、みたいな話をしていましたが、シャキシャキポックリ150歳が現実になるとすると、本当に今自分は修士出たばかりの入社1,2年目相当ということになり、将来への備えも何も、まさに「今」を真剣に生きるに精いっぱいなお年頃になった、というわけなのでした。

 それにしても人間歳を取って知恵がついたようにみえても、何か新しい行動を精いっぱいすれば、次々と外側に破らなければならない壁が待ち構えているものです。そんな時に、いつも思い出すのは本質的な哲学者たちのことば。

『鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。
生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。』
(ヘルマン・ヘッセ)

『何言ってんだよ!その崖っぷちが最高のチャンスなんだぜ!』(松岡修造)

 今年はこれらのことばを思い出す場面が一層増えそうです。

※ ”美しい”が「わかるわー」というとき、人は、意味的分析的に「わかる」をすっ飛ばしてしまいます。つまり感性は、暗黙知のあり方に似ているようです。特化型AIが、暗黙知の領域でこそ活躍するとするならば、実は感性の領域でこそAIは花開くのではないでしょうか。

この点はまたの会に考えてみます。

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